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これまでの病状に対する経過概要
1995年12月末
  • K部長(当初課長)との時期システム開発の打ち合わせ
    • 私はどう見積もっても少なくとも開発期間に正味1年半年かかることを主張した。
    • それに対し、周りの部門の要求はそうではない。開発期間は半年だ。宜しく頼むな。
1996年5月1日(水)
G/W中~
  • 2倍の(残業)スピードで開発開始
  • 残業は月曜日から金曜日までは夜中の3~4時頃まで
  • 土曜日・日曜日は自宅で朝方の5時頃まで
  • 連日休む日も無く仕事をやり通した。まさに月月火水木金金の開発体制である。
1996年7月1日(月)
  • K課長は部長に昇格
1996年8月
  • 数年目に新入社員で入社した直接の後輩があまりにも私の仕事を邪魔するので、私は開発ルームを作り、以降そこにこもってシステム開発を進めた。
1996年9月末
  • 連日の深夜残業(過重労働)で体に異変を感じた。

    このことをK部長に言うべきかどうか、大企業のサラリーマンの大先輩にあたる「私の父親」に相談した。

  • 答えはNO! あと5ヶ月間程度だったら、ここは辛抱してやり通せとのこと。その後病院に2~3ヶ月行って体調を元に戻せばよいとのこと。私は信じきってやり通した。この判断がのちに大変なことになる
  • 父親はこのとき単身赴任をしており、土曜日・日曜日の私の仕事振りの状況すらも知らなかった。一方母親は私の仕事振りは充分に知っていた。いわば母親は当開発の当事者である。
1996年11~12月
  • 幻覚症状2回、幽体離脱1回あり
  • K部長は、私の仕事のサポートを行っているY主任が限界に来ていることを私に打ち明けた。K部長は私に対してY主任のサポート部分を手伝ってあげれないかとの依頼だった。私は気持ちは分かるものの、その時初めてこれまでの症状をK部長へ打ち明けた
1997年3月1日(土)
  • 私の体の変調が行動・言動に出始めことで、K部長は私に外部病院に行くことを命じた。
  • 私は拒否したが、無理矢理K部長の指示の元に1年上の先輩に東邦大学付属病院 心療内科に連れて行かれた。
  • いろいろ症状を質問シートに記入し、診察を受けた結果、心療内科の領域を超えてるとの事で、紹介状を書いて頂き、精神神経科 専門の常泉クリニックへ行くこととなった。このときの体重は10kg以上やせていた。
  • 常泉院長からは3ヶ月の休養を取れと命じられ、私も職場の上司(K部長、T課長、Y主任)も納得し、勧められたが、私の両親が納得せず結局休養は取らなかった。このことについては約5年経った2002年4月16日に両親に責任を取ってもらうこととなった。
1997年5月
  • この仕事にピリオドをうった。
  • また、お薬を飲み始めたせいか、ストレスが一気に吐き出されたせいか、頭上が一気にはげた。発毛剤を3年半近く3種類試してみたが、頭上の髪の毛がはえてくる気配はなかった
  • さらにこの仕事にピリオドを打ち、今後何の仕事をして会社に貢献すればよいのか、激しく不安に陥った。また1997年1月17日にK部長から怒鳴り散らされるようにして怒られたこともあり、このころから「不安」「憂うつ」「自身損失」「絶望感」に陥り1997年の8月ころまでその症状は止まらなく生まれて初めての自殺願望にまで陥った。
1998年3月12日
  • 職場から5分の場所にある独身寮であるが、期限が来たので退寮することとなった。
  • 以降、結婚するまでの3年間は職場から片道2時間かかるところから通勤することとなった。
1998年7月1日
  • 私は主任に昇格した。
1998年11月20日
  • 私は課長以上の前で主任発表をすることが決まった。
  • 制限時間は40分である。発表20分、質疑応答20分。発表時間が20分を少しでも超えると猛烈に怒られるとの噂もあった。
  • 私は本日からK部長にアドバイスを受けながら悩みながらストーリーを考え、1998年12月11日から改良しながら20回以上の練習を重ねて。最後にはノイローゼ気味になり、生まれて2回目に自殺願望を考えることとなった。
1999年2月1日
  • 私は課長以上の前で主任発表をした。
  • 発表時間は19分20秒、上出来である。センター長からもプレゼン能力について誉められた。
2000年5月
  • 職場ごと完全空調である新ビル17Fに移った。
2000年5月24日~
2000年6月13日
  • 2人目の新入社員の教育担当者となった私は6月19日の教育成果発表に向けて自信の無さから悩み始めた。
  • 1997年1月17日以来、自信を失った私は生まれて3回目の自殺願望まで陥った。
2000年7月1日
  • K部長は6月24日に部長の座を降りることを昼礼で発表した。
  • K部長は7月1日にK部長はプロジェクトマネージャーに降格、Y主任はマネージャー(課長)に昇格した。
  • 同時にこのころから私は初めて完全空調の冷房に反応し始め、体調が急に悪くなった。
  • 原因も分からず、2000年11月末頃まで体調の悪い状態は続いた。発表したことが原因なのか、K部長降格、Y課長昇格が原因なのか、それとも単純に冷房病なのか、また遠距離通勤が原因なのか、苦しみながら悩んだ。しかし私は小さい頃から冷房が大好きで冷房病は考えられなかった。
2001年2月1日
  • 私は妻と入籍した。
2001年3月4日
  • 私は妻と結婚した。
  • 新婚旅行は3月5日から3月10日にかけてハワイへ行った。
2001年8月4日
  • 私は下痢症状を起こし始めた。原因は分からなかった。
2001年10月1日
  • 職場ごと126人まとめて私も含め子会社に出向した。
  • 出向説明会では必要にプレッシャーをかけられ主任は最低限200時間/月の労働時間を命じられたと思った。
2001年11月29日
  • 最低限200時間/月の労働時間を意識し、今日初めて始発の電車に乗り5時から仕事に就いた。
2002年1月16日
(水)
  • 最低限200時間/月の労働時間の意識が無理をたたったのだろうか。帰り際に背部痛で倒れこんで起き上がれず救急車で聖マリアンナ東横病院へ運ばれた。
  • 綿密な血液検査やレントゲン撮影を行ったが、どこにも異常は見当たらなかった。
  • 次の日から出勤したが、背部痛の箇所が転々と移動した。
2002年2月1日~
2002年3月31日
  • 職場の上司の意見から、主治医が診断書(自律神経失調症)を発行し、有給休暇と医療看護休暇で2ヶ月間の自宅療養を取ることとなった。
2002年4月1日
(月)
  • 奥田院長より、事前(3月26日)に復職診断書(うつ病)が発行され、無事復職した。
2002年4月9日
(火)
  • T部長代理より、「4/8朝の件の私用電話」、「休憩時間を守ること」、「自分だけ特別だと思わないこと」の3点について怒られ、言い訳もせずに、ひたすら謝り、以後気を付けることを約束した。
  • 社会人としてのモラルが無く、風紀を乱すことはやはり、いかなる事情があろうとも、許されないのである。たとえ薬の副作用で眠くなろうとも。しかし、これが「体調改善プラン」作成へとつながり、大変な問題を引き起こす結果となる。
2002年4月14日
(日)
  • 両親に対して誤った判断をしてしまった「戦争責任(5年前の判断の不祥事の件)」の追求を徹底的に行った。
  • 両親はこれまでの育て方や判断結果に対して謝罪し、「戦争責任の所在と依頼」文書サインをした
2002年4月16日
(火)
  • ついに予想したミーティング開催通知がAMにメールで届いた。ミーティングは17時から18:40まで行われた。内容は「私の体調の件」と題して「裁量労働」から外すかどうかの結論を出す会議だった。
  • 出席者は、W事業部長、T部長代理、Y課長。早速先制攻撃で資料を配り、全体的な考え方の変化、2002/04/16現在の体調報告、仕事面について説明した。しかし、T部長代理がちょっと無理して書いてないかとの指摘から始まり、結局体調面については若干否定された。また、やはり本来の趣旨は私に対する裁量労働の「非適用」の説得のようにも見受けられ、結局応じるしかなかった。とんでもないことになった
2002年4月24日
(水)
  • 運が良いことに裁量労働からは外されなかった。しかし今後、私は働きすぎないよう、注意が必要である。
2002年4月25日
(木)
  • 連日の薬の副作用で昼休みに空いている会議室で眠りに就きチャイムに気付かず、13:38まで会議室で居眠りをしており、T部長代理に「注意」を直接その場で受けた
2002年4月26日
(金)
  •  日中の毎食後の中枢神経薬及び、就寝前の睡眠導入剤・睡眠薬の服用により、それぞれの副作用からくる一日のリズムの悪循環(日中の眠気等)を撲滅させることを目的に2002年4月21日付けで「体調改善プラン(初版)」を作成しており、T部長代理、Y課長に見せてほしいと言われ、それぞれに対してメールで2002年6月27日に送付したこと。
2002年5月30日
(金)
  • 会社のビルの完全空調に再び反応した。2年前のことといい、今度こそは原因を解明する決意をした。
2002年9月4日
(水)
  • 13ヶ月ぶりに下痢症状は回復した。
  • 原因はおそらく冷房の効いた会社で冷たい水を飲んだことであろう。
  • このことにより、「体調改善プラン」はほとんど中止。見直しが必要と判断した。
2002年9月17日
(火)
以降
  • 結局「体調改善プラン」の実施により、薬の服用を抜いて体調が悪化したことが判明
  • 本日から本格的に病院の主治医と相談し、本格的な薬物療法開始
2002年9月30日
(月)
  • やっと緊張状態がほぐれ、全身が凝り固まって血行が悪くなる症状が改善。
2002年10月12日
(木)
  • 充分に見直しをした上で「体調改善プラン(第二版)」を作成。
  • しかし、T部長、Y課長共に当プランに対してある程度まとまったコメントがあった。
  • T部長からは随分厳しいプランを立てたとおっしゃっており、「完治させる」「自ら厳守」「一切禁止」「いかなる理由があろうとも」という表現は、はっきり言って厳しすぎると思っていらっしゃるようである。また、「毎日薬を飲む決めた時間の誤差±10分」という表現も指摘事項の一つである。T部長はもっと気楽に生きる意味でプランに抜け道を作り、ルールを守りなさいという私に対する愛情表現であり、私も納得済みである。
  • Y課長からは業務に支障が出ないようにするのは当然のことあの「一切禁止」などの表現は改善プランとしては不適切だとおっしゃっている。さらに、もっと柔軟さ、適応能力、臨機応変な考え方及び行動を身につけることが大切だとおっしゃっていた。このことは私も充分に理解できた。
  • 次回の「体調改善プラン」の改版は、もっと気楽に生きることを念頭におき、少しだけ抜け道のあるルール作りを心がけ、もっと柔軟さ、適応能力、臨機応変な考え方を取り入れて反映させたい。その上で「体調改善プラン(第三版)」に沿って行動していきたいと考えていきたい。
  • 近日中に「体調改善プランの」改版を考えていたが、現時点では2002年9月17日を起点にして、奥田院長が私の状態を非常に詳しく診ており、私に対する奥田院長の考え方も変化してきているようであるし、もう少し様子を見てある程度落ち着き、まとまった時点で「体調改善プラン」の更なる改版を私は行いたいと考えている。
2002年10月17日
(木)
  • 初の終電出勤。この2週間(2002/10/03~)、主治医の処方が睡眠導入剤からうつ病に効く抗てんかん剤に変わり、一回目覚めると寝付けなくなってしまっていた。ついに昨晩は21:37に突然吐き気がして起床。ねばってみたが以降寝付けなく、終電出勤をしてみた。さすがにAM4~5時付近は眠たかった試しに8時半頃にリタリンを飲んでみた。AM9時付近も眠たくなったが、リタリン(中枢神経興奮剤)が寝不足に効き始め10時頃には眠気は回復した。今度はリタリンの副作用でイライラし始めた。さすが魔の木曜日である

  • 今日は奥田神経科に行き、この2週間のこと(寝付きの悪さ、5年半続いた薬の副作用による眠気)を全て報告するつもりだが、何と言っても魔の木曜日。私の思惑通り抗てんかん剤が再び睡眠導入剤へ、またリタリンが朝食後の1錠から朝・昼食後の2錠剤へ変わればよいが、何と言っても魔の木曜日、不吉なことが起こらなければよいが・・・。

  • 低姿勢で奥田院長に相談し始めたら、幸いにして私の思惑通りに処方された。薬は2週間残っているので、追加分として昼食後に服用するリタリン(10mg)1錠/日、交換した睡眠導入剤のマイスリー(5mg)を2錠/日を処方して頂く事が出来た。私はうれピー!ノリピー!ハッピーである。そして奥田院長には低姿勢で相談することが望ましいようだ。

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